往復書簡006:クレオール

 ぼくを湿地帯に引きずり込んだなんて、とんでもない。どうか、お気づかいなく。なにしろ、ぼくは、「日本近代美術史」という、天使も踏むを危ぶむ泥濘地帯をフィールドとして研究をつづけてきたのですから。
そればかりではありません。「日本」と呼ばれるこの場所は、葦の生いしげる湿地すなわち「豊葦原瑞穂国[トヨアシハラミズホノクニ]」という美称を有しています。つまり、湿地帯の広がりとして、この列島は表象されてきたわけです。現在では、どこもかしこもコンクリートで覆われているものの、観念のレベルでは、ここは、いまもなお湿地帯のままです。すなわち前近代と近代と脱近代が複雑に結合しながら、明確なかたちを成すことなく思想や芸術の状況は推移しつづけています。
江戸時代以前から認められるこうした泥沼的思想風土は、明治以降に、いっそう顕著なものとなりました。近代化の手本と目されていた「西洋」と呼ばれる地域からもたらされる新しい概念を次々と受け容れることで、思想史が形成されてゆくようになったからです。ただし、「思想史」とはいいながら、ほんとうは「史」としての体裁を成すものではなく、スクラップ・アンド・ビルドの連続でした。「オーソリチーのなき国こそ楽しけれ」と言ったのは『白樺』時代の武者小路実篤ですが、オーソリティーなど成り立ちようのない状況が、明治以来連綿と続いて今日に至っているのが実情です。アイロニカルな見方をすれば、これこそまさに「近代」性と呼ぶべきかもしれないのですが、それはともかく、前近代的なものが叢生する列島の湿地帯では、概念にまつわる社会的了解を得ることなく、また、そのような事態を逆手にとるようにして、幾多の概念が次々とひとびとを魅了しつつ消費されていったのでした。
たとえば、三島由紀夫は、「美」という翻訳語の曖昧さを梃子に、韜晦とアイロニーを弄することで「美」の絶対化を目論みましたが、こうした翻訳語のはたらきを柳父章は「カセット効果」と呼んでいます。この場合、「カセット」というのは宝石箱のことです。つまり、柳父は、それじたいがうつくしく飾られた宝石箱は、そこに宝石が入っているいないにかかわらず、ひとを魅了するということ、つまり、概念が如何に曖昧であっても、言葉じたいが――西洋世界への憧憬を介して――魅力を放つ現象を「カセット効果」と呼んだのです。
こうした効果は、「自然」、「存在」、「神」など、さまざまな翻訳語に指摘することができます。そして、ぼくたちが、いま手にしている「表象」という概念も、そうした翻訳語のひとつにほかなりません。

 田村隆一がいうように詩の世界では「ウィスキーを水でわるように/言葉を意味でわるわけにはいかない」のだとすれば、詩的言語において「カセット効果」は本質的な事柄であるということができますし、ジャンバッティスタ・ヴィーコの徒たる歴史家としては言葉のレトリカルな魅惑を否定するわけにはいかないのですが、しかし、詩や小説や評論や歴史叙述にかんしてはともかく、教育の場面で「カセット効果」を用いることには注意深くありたいと、ぼくは思っています。あらゆる翻訳語には、この魔術的効果が自動的につきまとうのだとして、しかし、教育の場面では、それに頼るのではなく、むしろ、この効果を出来るかぎり抑えてかかることこそが大切なのではないか、そして、そのために原語に照らし、日本社会における用法も踏まえつつ、合理的なテクニカル・タームの用い方を伝える努力を惜しむべきではない・・・・ぼくは、そう考えるのです。
もちろん、翻訳語をもちいない講義がありえないわけではないのですが、かつて丸山真男が『日本の思想』で指摘したように、「ヨーロッパの思想もすでに「伝統化」している」ことを認めないわけにはいきません。つまり、「表象」概念にまつわる問題は、この列島における学問一般の問題でもあるわけです。もちろん、かつて長谷川如是閑がいみじくも指摘したように、独創的な研究においては「学問の自由」以上に「学問からの自由」が大切であるのだとしても、教育場面においては、マニエリスティクな学問の伝授がまず行われて然るべきだと思います。さもないと、「学問からの自由」の意義さえも曖昧化してしまうからです。
 「カセット効果」にものをいわせるのではなく、さりとて翻訳語をあなどり、打ち捨てるというのでもなく、忍耐強い姿勢で、それを思考の枠組として鍛えてゆくほかないのではないか。これが教師としてのぼくが、自身に課してきた構えです。もちろん、あなたが指摘するように、スコラスティクな語義の詮議は一種の自己韜晦でしかありえないとしても、大学において学ぶために必要なかぎりでの定義、いいかえればプラグマティックな定義は必要なのです。いわずもがなのことですが、老婆心ながら、ここに書き留めておきたいと思います。
「表象」という語は、いまだ一般性をもつにはほど遠く、したがって高校生にはなじみのない言葉です。「表象」論的発想から設立されたとおぼしき学科が、「表現学科」を名乗る例に出くわすことがあるのは、おそらく、そのせいでしょう。しかし、「表象」を「表現」と呼び変える発想は、たとえマーケティングのための方便であるとしても、首を傾げざるをえません。近代において、ほとんど芸術の同義語として用いられてきた「表現」概念を批判的に乗り越えるためにこそ「表象」の語が要請されたのだと考えるからです。「表現」というのはex-pressionつまり内面性を前提とする語感が強く、その意味で近代芸術の枠内にとどまるニュアンスが強い。だから、「表象」のもつ軽やかな自在感――内面であれ外面であれ「表わす」こと全般にかかわる広がりのある自在感から、あまりにもかけ離れているように、ぼくには感じられるのです。状況への妥協を排して「表象」という耳慣れない言葉を掲げたぼくたちの専攻は、教育と研究の双方にまたがる困難な課題を担ってゆかなければらならないわけですが、それは、魅力に富んだ困難であると、ぼくは感じています。
ここで教師としての構えを、ことさら強調したのは、職業倫理への拘泥でも職能教育の率先垂範などでもなく、職業にまつわる理想主義的な次元に思いを馳せるからです。すなわち、ボイスのいわゆる「社会彫刻」に――あるいは、ボイスに先立って『ドイツ・イデオロギー』のマルクスエンゲルスが、『ポエジ』のイジドール・デュカスが、そして「農民芸術概論綱要」の宮沢賢治が提示した、すべてのひとびとがアーティストでありうるような社会といううつくしいヴィジョンに、このことはかかわっていると、ぼくは考えるのです。自分自身の仕事の社会的意義を踏まえ、仕事をまっとうすることに悦びを見出すならば、如何なる職業もアートとして成り立つはずなのだ、と。かつてシモーヌ・ヴェイユは、労働者たちは生活が詩になることを必要としていると述べましたが、美術にかかわる教育は、このことを実践的に若いひとたちに伝えることのできる格好の手段であると、ぼくは思います。これは職能教育などより、ずっと大切なことです。
・                   
 あなたは、ルイ=アルチュセールを引きながら、列車の譬えを用いています。走っている列車に飛び乗るというスリリングな魅力に富んだこの譬喩を、「芸術表象専攻」に強引に引きつけて読むならば、この葦原を走り始める列車は一系統だけではなく、すくなくともA、B二つの系統の列車が走り始めるはずだということを、いっておかなければなりません。
Aは理論系、Bは歴史系であり、しかも、それぞれの系は、複数の授業担当者によって運行されるために、場合によっては支線に入り込んでゆくような場合もあるかもしれません。葦原が湿地であることを思い合わせるならば、列車よりフォヴァークラフトの譬喩の方が便利かもしれませんが、とにかく、「芸術表象専攻」における学びの移動手段は、走る方向も速度も規模も、さまざまであるはずなのです。しかしながら、同じ葦原を走り抜けてゆくからには、それらは全く無関係というわけではありません。すくなくとも、これらの移動手段は「表象」という場を共有しているわけであり、そのことによって、「芸術表象専攻」という場の在り方や方向性を決定してゆくのだと、ぼくは考えています。
歴史と理論、そして教員個々人が、「芸術表象専攻」という場を介して関係し、そこで形成される合力によって専攻の大きな方向性が、そのつど決まってゆくということ、ただし、教師にせよ、学生にせよ、この大きな方向性に――ドミナントマジョリティーに――受動的に縛られるわけではなく、各人の目指す方向性が、専攻の方向性に絶えず働きかけうるような関係であること、このような関係態が、ぼくたちの専攻の在り方を決定してゆくのが望ましいと、ぼくは考えています。
「芸術表象専攻」に関する、このような思いは、エドゥアール・グリッサンに由来しています。マングローブの叢生する塩性湿地帯を抱えるカリブのマルチニーク、その中央部に位置するル・ラマンタンに育ったこのクレオールの思想家が、カリブ海に浮かぶ島々を想い浮かべつつ述べた「我々の集団テイアイデンティティは一つの合力[レズユルタント]である」という言葉から、ぼくは、上に書いたようなことを考え始めたのです。あなたも前便でグリッサンにふれていましたが、彼は『全−世界論』(恒川邦夫訳)のなかで、このように規定されたアイデンティティを「リゾームアイデンティティ」と呼び直したうえで、「すべての言語[ラング]に場を与えよう、まずは我々のクレオール語に、なぜならそれは一つの合力であり、予測不可能なものだから」として、次のように述べています。



世界の島の大部分は他の島々と列島を作っていることに注目しよう。カリブ海の島々もそうした島々である。それは行政的、制度的な秩序、〈連合国家〉をまず定義せよなどとは言わず、予備的なものを措定することにこだわらず、いたるところで、混交の仕事を始める。〈列島〉における我々の諸関係に関しては、大きなことを精神にとどめつつ、小さなことから始めよう。


 カリブ海の列島に属するハイチを襲った悲劇に向けて、世界の「合力」のベクトルが正確に向けられているか、自戒をこめて心慮せずにはいられない状況が続いていますが、ここは、文脈の流れに沿って「芸術表象専攻」に思い馳せつつ、そろそろ書簡を終わりにしなければなりません。グリッサンは、みずからが打ち出した「クレオール化」という概念について、次のように説明しています。



クレオール化は、複数の文化、あるいは、少なくとも複数の異なった文化の要素を世界のある場所で接触させ、合力の結果として、単なるそれらの要素の総和ないしは総合からはまったく予測できなかったような、新しい与件を産出することである。


クレオール」という語は、ご存じのように、いくつかの意味をもちますが、言語に関しては、植民地おいて宗主国と現地の言語が混成した言語のことを指します。グリッサンは、これを一挙に文化概念として押し広げてみせたわけであり、このようなクレオール化は、現在、さまざまな学問の分野においても見出されます。インター・ディシプリナリー(学際)と呼ばれる動きは、その典型的な例です。この動きは、複数の異なった学問の要素を接触させ、その合力の結果として、予測しがたい新しい知識を産み出していったのでした。
芸術表象研究もまた、このような学問の現在の在り方を踏まえています。もともと芸術学や美学や美術史と近い領域であるとはいいながら、ここには、他のさまざまな学問がかかわり、入りこみ、組み込まれて、多様な変化を産み出しつつあるのです。つまり、「芸術表象専攻」における芸術研究とは、いってみれば「美学」の、「芸術学」の、そしてまた「美術史学」のクレオールだといえるのではないでしょうか。つまり、ここは、芸術研究におけるカリブなのだ、と。
さあ、グリッサンのアドヴァイスに従って、身近な小さなことから始めましょう、大きなことを絶えず精神にとどめながら。