往復書簡005:背丈ほども伸びた草のなかで

北澤さん 珍しく、時間をおかずに返信します。

 ブリコラージュ、コーヒーカップ、そして動いているということ。どれも心に沁みました。本来そんな気持ちの悪い場所に、じめじめとした湿地帯に、足を踏み入れる必要などなかった人を、引きずり込んでしまったかのような後ろめたさを感じています。でも、ひょっとするともうずいぶん昔からそんな場所に魅力を感じなくなっているのかもしれない自分に対して、勇気を奮い起させてくれるような言葉を投げかけてもらって、いま一度、始末におえそうもない粘土質の軟弱地盤のなかで、泥にまみれつつ格闘するのもいいのかなというような気にさせられました。感謝しています。動いている、と、あえてヴィリリオの用語を避けたのは、失言を繰り返すわが国のノーベル物理学賞受賞者の高踏的な発言にも似た、ソーカルとブリクモンの、およそポストモダニズムの本質などわかるはずのないであろう指摘のなかで、けれどもラカンヴィリリオについては正しいかなと思わされたことで、昨年末の depositors meeting の参加ファイルとして作成した、影響を受けた人たちをアルファベット順に並べた奇妙なディクショナリ的アーカイヴから、"v"の項目を抹消し、ヴィリリオを葬ったこととも関係しています。ちょっと話はずれますが、あまりに古臭いテーマばかりと唖然とさせられる美術手帳の評論賞で、ソーカルの論文にも似た題名で kawara on を論じたアーティストの評論が入選し、けれども選者たちの誰一人としてソーカルのことに言及せず、しかも本来の名前を伏せて投稿したアーティストも、どうやら真剣にそのタイトルを着けたらしいと知ったとき、あまりの間抜けさに驚きました。評する側も、評されようとした側も、おおいなる無知に包まれていて、賞全体がパロディなのかとさえ訝りました。

コーヒーカップの話は続けなくてはだめですね。僕は、もちろん北澤さんがおっしゃるように、表象の定義にはあえて深入りしないように逃げてきたわけです。いやさらに言えば、芸術表象の英文表記にも見られるように、そう表象でなくてさえ構わないのです。つまりまさにここでも、表象することが問題になるわけです。表象と、表象すること。その問題です。つまりそうしてしまう人間の欲望と、背後にある政治、力学、まあそうしたすべての問題です。名前をつけるというのは、いまさら指摘するまでもないことですが、難しい問題です。分節化といってもいいでしょう。まさにそれは、そうするものの欲望をさらけ出さずにはおかないのです。自身その質問の意味を知っているがために、恥ずかしさに身をくねらせながら、ボイスにコヨーテの憑依について尋ねた人類学者が、芸術と人類学の架橋を欲望するとき、それはその内容以上に、興味深い対象となるわけです。これは真面目に言っているのですが、言葉の問題に深入りするよりは、もっと他にやることがあるはずなのです。豊かな世界を前にして、必要もない用語の探索や、その定義、使用法にかかりっきりになるのは、わかり安すぎて気恥ずかしくなるような現実逃避に他なりません。と、自分自身に言いきかせています。そうしたことよりも、僕が興味を抱いているのは、ブリオーが著作のなかで触れ、またそれ以前からある意味で実践について説明する最も魅力ある喩えでもあった、アルチュセールの動いている列車に乗るんだという表現に、どうしたらかなうことができるだろうかということです。科学のイデオロギーへの興味だけから、カンギレム-アルチュセールの方へ、近づこうとしているわけではないわけです。……ちょうど今朝、前夜の深酒がたたってか、予定よりも早く目覚めてしまい、しばらく妄想の世界に浸っていたのですが、変に堅苦しい出来の悪い文章を書き続けていくよりは、そちらのほうがましかなとも思うので、しばしその世界に現実逃避していくことにします。

僕たちは目の前の列車に飛び乗ります。僕たちと言いましたが、これは北澤さんと僕というわけではなく、老若男女取り混ぜた、なんとも不思議な一団です。いずれにせよそうした奇妙な一団が、えいやっとばかりに、動いている列車に向う見ずにも飛び乗るわけです。それは、どこかの駅のプラットフォームで、明確に行き先のわかっている列車に、指定席の番号を確認しながら、臆病な態度で乗り込もうとする間の抜けた旅行者とは決定的に異なる様子でそうするわけです。それでも列車のなかでは、やがて、いろいろなことがわかってくることになります。列車の前方から夕陽と思しき光が射し入って、車窓の風景をコントラストの強い、印象的なものに変えています。どうやら、列車は夕陽の方向に向かって走っているようです。西に向かっている? おそらくそうでしょう。でもまだ、その時代その土地で、あるいはその惑星で、太陽が西に沈むかどうかは確認しなくてはならないでしょう。あるいは、方角はまだ、東西南北の4つだけなのでしょうか? 聞いたこともないような名称の方角が、その土地では使われているのかもしれません。確認しなくてはならないことはまだまだたくさんあります。しかしそれでも、とりあえず確認しなくていいこともあります。つまり、列車は、いままさに赤く染まろうとしている太陽らしきものの方向に向かっているということです。あるいは、僕たちよりも前から列車に乗っていた乗客に声をかけてみるものも出てくるかもしれません。どこ行きなの? ○×△よ。別の乗客。×○△。また別。△×○。どれもはっきりしませんが、それでもどこか行く手にそう呼ばれる土地か町、あるいは村があるらしいということがわかってきます。まるでセガレンの記憶なき人々のように、あるいはタレルのブラインド・サイトに足を踏み入れたもののように、そう、ある文化がある土地を覆い尽くそうとしているのを静かに待つように、あるいは視覚細胞が暗順応するのを眠気と闘いながら待つように、けれどもそこで、おぼろげながら何ものかが姿を現そうとするのを時間をかけてゆっくりと待つのです。あるいは同じような例として、無謀にも何も知らずに遍路路に足を踏み出した、若き高群逸枝を想起してもいいのかもしれません。ああ、私のいく手はいずく。彼女の姿は、実践が、いかに向こう見ずで無謀な要素を抱えているかを知らせてくれます。あるいは、サンドラールの世界の果てにつれてっての老女、テレーズ、あるいは、マルケス眠れる美女の、90歳の誕生日によからぬことを考え、そのため焦がれるような恋に落ちていく男……。

いずれにしても、アルチュセールはそうした行動を実践の本質とみなしています。あるいはさらに、僕たちはアルチュセールの喩えをより真剣に受け取って、あるとき、意を決して動いている列車から曠野に身を投げ出したってかまわないはずです。僕たちはきっと、列車の汽笛が遠ざかるのを背後に聞きながら、身の丈ほどに育った葦のような植物をかき分けて、どこかに向かって進んでいくはずです。いや、こうした描写は何ともマッチョで、モダニスティックで嫌気がさしますね。少し修正しましょう。例えばこうです。少し開けたところで、小さな流れに草をむしって投げ入れながら、釣りをしたり、お茶を飲んだりするというのはどうでしょう。あるいは、一団の奇妙な一体感のなかで、愛が芽生え、抱き合うものだっているかもしれません。いずれにしても、僕たちはそこで野営することになるのでしょう。こうした比喩になったもの、北澤さんが当初、パオのような教室でキャラバンのように移動しながら授業するのもいいねと言っていたことと決して無関係ではないはずです。クリステヴァの自我のモデルに倣うまでもなく、僕たちは別にどこかを目指しているというわけではないのですが、けれども、常にどこかに向かう過程にある。……思えばつくづく不思議だ。こうしてわからない未来へ、一歩一歩踏み込んでいく私の運命の数奇さ。娘巡礼の心細さは、僕たちの一団の中にも忍び込んできます。

さあそんなとき、誰かがポケットから地図を取り出します。地図。自分の居場所と、これから向かう先、あるいはどこからやってきたのかを知るための手立て。地図は、ひょっとすると西洋近代の知性を象徴しているものかもしれません。アートでいえば美術史や芸術理論というところでしょうか。しかし、もう僕たちは、どちらの方向に向かっているのかわからないような列車に飛び乗り、どこか知らない場所でそこからも飛び降りてしまっています。特別な道標の類も見あたりません。残念ながら、その地図はまったく役に立たないのです。列車のなかで耳にした○×△も×○△も、そこには書き込まれていないようです。僕たちはそんな場所では、ファイヤアーベントが暴いた、科学者たちの素朴な行動を思い出してみるべきなのです。anything goes。何だってやってみればいいはずなんです。けれども、無用さを嘆くあまり、一団のなかの誰かが、その地図を破り捨てようとするのには注意しなくてはなりません。それはあまりにも浅はかな行動です。僕たちはなんとかそれを阻止しなくてはなりません。何だってやってみればいいわけですが、やみくもに草むらのなかをそれぞれに駆け出してしまえば、もう仲間とも会うことはかなわないでしょう。何だって、のなかには、もちろんその地図を利用したもろもろの行為も含まれているのです。そんな興味深いことを投げ出してしまうなんて! 多様なるものは減少している。セガレンの言葉が思い出されます。僕たちはその地図に描かれている内容を、別のかたちで読み取り、そして応用してみる、ということももちろん試してみるべきなのです。例えば、こんなことをしてみるのも悪くはないはずです。地図に描かれた丘と川の関係を、目の前の光景にあてはめてみる。あの丘の構造を考えれば、右手のほうに川が流れているかもしれない。あるいは、もしもすでに見知らぬ街に足を踏み入れていたのだとすれば、まったく異なる街の地図を引っ張り出して、大通りと駅の関係から駅と思しき方向を類推してみる。もちろん、思い描いたような結果、つまり川や駅にたどり着くということはほとんどないでしょう。けれども、こうした行為を自身の生活の一部に組み入れるということは、そんなに悪いことではないはずです。おそらく知性とは、その程度のものに過ぎないはずです。でも、だからこそそれは重要であり、素晴らしいのです。

僕は、こうした可能性を見つめている人間の地図の利用方法や、無用さを理解した上で、目の前の何ひとつ知らない光景のために、それまでとはまったく異なる方法で描かれる地図に興味を持っています。不確かなものを手掛かりとして築かれるものこそを見つめる必要は、セゼールやグリッサンの言葉を引くまでもなく、いままさに必要なことなのではないでしょうか。あるいはけれどもそこで、アルチュセールの言うように実践するということは、思想や芸術の世界にそれを応用するという時点で、もうすでに大いに逸脱していることを承知の上でいえば、昌益の直耕を思想や表現に応用してみるということにもなるでしょう。グリッサンらが依拠するドゥルーズから、まさに対極にも位置するかのようにも思える昌益につなげてみるのはあまりにも突飛かもしれませんが、いずれにしても昌益の能産性への期待と、ドゥルーズの堅牢な根拠からの解放、あるいはシャモワゾー、セゼール、グリッサンとは、あるいは今まさに背丈ほどにものびた草に囲まれて途方に暮れているあの勇気ある、もちろんそのくせ意気地なしのあの一団とは、そう遠い距離にはないはずなのです。あるいは僕たちはそこに、数多くの名前の霧のなかに自分自身を消散させようとしたペソアや、共同体の幻想をアーキペラゴの姿を通じて穏当なかたちで再建しようとしたカッチャーリ、適切にもソンタグがフリーズ・フレーム・バロックと呼んだフラグメントの集成に基づく独自の探究を行ったベンヤミンを加えてもいいのかもしれません。共通しているのは、ポストモダニズムがその重要性を主張し続け、けれどもそれを上手に具体化することに失敗したために、いまではすっかりと忘れ去られている、ひとつの姿勢なのです。確固たる根拠、全体を包摂する物語、それらの不在をどう生きるかということ。その問題と、しっかりと向き合う必要があるはずなのです。

僕たちの野営はいつまで続くのか。あるいはもちろん、野営のうちに生を終えるものもいるでしょう。いやおそらく、誰もがそうなるのかもしれません。そのようなものにすぎない結果に至るはずの限られた生のなかで、そう意識してみることこそが重要なのかもしれません。華々しくゴールを切る自我を夢見るのか、あるいは常に過程にあるという現実をしっかりと受けとめるべきなのか。もちろん、いたずらにポスト・コロニアリズムの思想を表面的に引用することは避けなくてはなりません。けれども、そこでの思想を、自らの慎ましさを思い出すために利用したり、あるいは不安定な現実を受け入れつつ、そこで生きていくために利用するというのであれば、おそらくそれは許されるはずです。アンティルを襲った過酷な自然災害を伝える報道が、必ず用いる最貧国という形容は、彼らの思想を利用すべきものたちの、ある種の驕りを示しています。ずいぶん話が遠くまで来てしまったような気がします。いずれにしても、近年最も広く読まれた美学書、ブリオーの関係性の美学の背後に、明らかにグリッサンの関係性の詩学が、つまりはドゥルーズリゾームが、そして多様性の美学、つまりセガレンの姿が見えてきます。そう、先の妄想にもう少しだけお付き合いいただけば、僕は、一団の傍らに馬に乗った一人の西洋人の姿を認めて近づいていったのです。セガレンによく似た柔和な顔立ちの彼に、僕はこう尋ねます。多様性はこれでもまだ減り続けていくのですか? 馬上の彼がどのように答えたかは覚えていません。こうした妄想に変な落ちをつけてしまえば、ニーチェの指摘の如く、悲劇であることもかなわなくなってしまいます。もっとも、ここでの妄想が悲劇で終わっては困るし、もちろん、そもそもどう考えても喜劇のほうが距離は近いわけですが、いずれにしても、僕たちはそこで、何かに手を伸ばしたり、どこかに歩を進めたり、大きく背伸びをしてみたり、することになるわけです。

能産性、それが多様性に向かえば、セガレンの危惧は回避できるかもしれません。しかもそのとき、これまでの方法もまた、多様性の一部を形成しているという、あたり前のことを忘れるべきではないでしょう。小心な僕は、これまで妄想のなかの主人公たちを不確かな一団と表現してきました。ひとりでの行動を、おそらくは怯えてのことでしょう。かつては一団だったとしても、おそらくすでにその一団は、どこかの時点でばらばらの方向に散ってしまっているに違いありません。妄想もまた、入れ子状になっているのです。けれども、身近にいると感じていた人物が実はそこには存在しないというのは確かに問題だとしても、遠く離れたどこか別の草むらに、同じように方向を見失って、さまざまな多様性を試みて行動している自分と同じような人間がいると想像してみる権利は残されているはずです。それはリンギスの共有せざるものの共同体にも似た、これまで無視されてきた意識です。リンギスの共同体論は、ここのところ僕には、ドゥボールのスペクタルの社会を肯定的に捉えなおすための手がかりのような気がして心から離れません。あるいは、グリッサンも、多様性、関係性に基づく全-世界の背後に、ドゥボール的な世界があることを指摘しています。さあ、いずれにしても少し長くなってしまいました。僕たちはおそらくこの往復書簡をもう少し無防備なかたちで継続しながら、また卑怯にもそれまでの主張を簡単に転換したり、行き暮れたり、諦念したりしてみるべきでしょう。少しばかり開けた野営地には、さまざまな方角から、草を掻き分けていろいろな人間がやってきます。疲れた身体を休めたら、リクリットのタイ風焼きそばを食べて、気分転換にクリスティン・ヒルの古着を手に入れてもいいでしょう。さあそして、またそれぞれの思った方角に、散っていくことにしましょう……。


杉田 敦