往復書簡003:ギー・ドゥボール

北澤さん

大変遅い返信になってしまいました。お許しください。遅れた言い訳をあれこれ書き綴るのも無粋なので、海(つまりそれは海岸って言うこと?)に行っていたからかなあとでもしておきましょうか。

 さて、ぼくたちはいま芸術表象という新しい専攻のアイデンティティづくり、またその現実的運用に四苦八苦しているわけですが、実際にいろいろと動いてみると実感としてさまざまな思いが沸き起こってきました。今日はそんな想いを少し吐露させてもらおうかと思います。ぼくはこのところ、「実践的な言説」という言い回しに多少酔っているところがあって、いろいろ見失っているみたいです。従来からの枠組みが、まったく色褪せて見えているのはこうした自失の状態であるからに違いありません。ぼくたちは(すみません、ぼくはとするべきでしょうね)、結局、ドラスティックに何事かを変えるなどということは到底できるはずもないはずです。けれどもだとすれば、いやだからこそ、多少大げさな変化を想定し、しばらくのあいだそこであれこれと夢想してみるのも悪いことではないはずです。ドキッとされたかもしれません。言葉足らずでしたが、従来からの枠組みというとき、決してそれはストレートに美術史や美学、あるいは旧来からの表現形式における制作技術などを指しているわけではありません。そうしたカテゴリーを存在するものと決め込み、そこに問題を押し込めてしまうことは、ときに本質を見誤らせることにもなります。何が言いたいのかというと、そうした枠組みのなかにも、いろいろな魅力、可能性が秘められているはずなのに、それらを既定で不変なものとして扱うことによって、それまで以上に閉じた、硬直したものにしてしまうことはないかということを言いたいのです。つまり、既定の枠組みというのは、カテゴリーそのものではなく、個々のカテゴリーのなかでその事態とどう向き合っているかという向き合い方とでも言えばよいのでしょうか(少なくとも、だとすれば「枠組み」という表現は不適切ですね)。もちろん、いまさらなのです。ぼくがのんびりしているあいだに、すでにいろいろな人たちが指摘してきたことを、滑稽にもいまになって気づいたために声高にがなりたてているにすぎないのです。ギー・ドゥポールのスペクタル性は、いつのころから知性のなかにも蔓延し、観衆だけを拡大再生産してきました。アートにおいてもそれは同様だったのでしょう。けれどもぼくは、アートにかかわるというのは、むしろそういう状況にあっても、時に血を流して傷つき、よだれを流して軽蔑され、間の抜けた指摘をして無視されるということをし続けながら、プラスマイナス双方の評価を受け、そして責任を負う実践主体であるべきなのではないかと思うわけです。

 あーあ、何かまたしても酔いが嵩じてきたようです。いずれにしても、こうして北澤さんといろいろ議論しながら、これまでにない専攻のあり方を模索するという作業は楽しいものです。北澤さんがいつも口にはしないものの、アイコンタクトでぼくに与え続けている「情況をかき回せ!」という指令に、どれだけ、そしていつまで応え続けられるかはわかりません。けれども、少なくともいましばらく、その努力を怠らないようにしようと考えています。

多摩川にて、夜風に吹かれながら

杉田 敦